多彩な静中人脈

慶喜・渋沢とも交流

静岡中学は明治11(1878)年師範学校の中に尋常中学として発足。幾多の俊英を世に送り出してきた。徳川慶喜が隠遁し、渋沢栄一が活躍した明治大正期に静岡でこの二人に関わった卒業生は数多い。静岡で随一の伝統校なので当然だろうが、文献などを調べるうちに誇らしい気分になった。

静中7期の言語学者・新村出(1876~1967年)が岩波書店のすすめで編纂したのが『広辞苑』。言語の正しい用法はもちろんのこと、意味、由来を平易に記述した労作である。20万語という膨大な語数を考えると気の遠くなるような大偉業で、昭和31年に文化勲章を受章した。

静中野球部は大正15(1926)年の甲子園大会で優勝した。夏の大会では静岡県で唯一の全国制覇である。この時の監督は加藤周蔵(1882~1948年)。静中14期で「文武両道」をリードし、日本学生野球の父・飛田穂州から兄貴と慕われた。

実はこの二人は実兄弟である。父は幕臣で慶喜とともに静岡に移り住んだ関口隆吉。戊辰戦争の際に慶喜に仕え、慶喜の身辺を警護する精鋭隊の中心として慶喜の静岡移住に尽力。1884年に静岡県令となり、初代官制県知事となった。明治22(1889)年に用宗で鉄道事故に遭遇し危篤になった際に、慶喜が見舞ったとの記録もある。

関口隆吉は勝海舟、山岡鉄舟とも親交があった。新村出は隆吉の次男。慶喜に目をかけられ静岡中学時代に慶喜の子息の家庭教師を務めた。慶喜が撮った写真には若き日の新村出が登場する。 新村出は渋沢栄一にも可愛がられ、栄一の四男・渋沢秀雄の著書『父・渋沢栄一』に、「一、二年前ラジオを聞いていたら、文学博士新村出先生も、むかし、父に文学などツマランから実業をおやりなさいと言われたと話しておられた」という記述がある。この著作は昭和34(1959)年に刊行されたので新村出のラジオ出演は80歳代の晩年と推察できる。父も子二人も名字が違うが、当時、優秀な子供は名家に養子に迎えられるのが一般的だった。

明治・大正期に活躍した静中OBは多士済々。文化勲章受章者には新村出の他、内科・病理学の権威・勝沼精藏(19期)がいる。「人権擁護の神様」と言われた弁護士・海野晋吉(19期)や人気作家だった村松梢風(22期)、人間国宝・芹沢銈介(28期)、財界四天王と言われた水野成夫(33期)らキラ星の如く輝いている。

慶喜と静岡(駿府)に移り住んだ幕臣は数千~1万人ともいわれ、この子孫の多くが静岡中学で学んだ。そのまた末裔が静高諸兄姉に繋がっていると思うと歴史の重みを実感せざるを得ない。

八牧 浩行(82期)